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| Subject: [shakaisisouken][00126]
非実体主義的つぶやき(6)
非実体主義的つぶやき(6) BY石井 (話がやや脱線しましたので元にもどします。因果律の主張には、「力」と「法則的必然性」、「自然の斉一性」という三つの論点がありますが、これまでに「力」と「法則的必然性」については触れましたので、最後の「自然の斉一性原理」について検討します) H自然の斉一性原理 宇宙の年齢は約140億年とされていますが、これは「自然の斉一性原理」、つまり時間の進行が斉一だった場合という前提での宇宙年齢です。 この「自然の斉一性原理」というものは、近代に成立した時代的パラダイムの一つであり、中世の中国では、古文書に記せられた天文現象の記録が計算と合わない場合は、記録の誤りではなく、過去の天体運行法則がその時点の法則と異なっていたと考えました。 ですから、中世の中国では自然法則も可変的なものと考えられていて、自然法則は過去も未来も一義的に、決定論的に貫徹するという現代のような「自然の斉一性原理」というものはありませんでした。 我々近代人は、「自然の斉一性原理」から一義的に決定論的に貫徹するものという法則観を持っています。この法則観により、我々近代人には例外や偶然を認めたがらない習性があり、否定し難い例外物が見つかると旧来の秩序や法則を修正して、そのような例外物が生じないように調整します。通常、この秩序性や法則性は客観物自体に内在的に具わっていて、我々は単にそれをそのままの姿で認識しているだけと思念されいます。 この「原理」を前提にして、初めて普遍的な自然法則という法則観が成り立つので、「自然の斉一性原理」は法則の法則性、メタレベルの法則性です。これは現代人には強固な信憑性を持つ確信的原理ですが、「自然の斉一性原理」は様々な知見を総合して判断した蓋然性としての経験知であり、あくまでも実証不可能な諸信憑の一つに過ぎません。 というのは、例えば、仮に全宇宙的に時間の進行が変化した場合、これは全宇宙的な物理的運動相自体の斉一的変化であるため、我々人間には検知不能なので、全宇宙的時間の進行は斉一的であるとも斉一的ではないとも、両方とも実証不可能だからです。 全宇宙的時間の進行は斉一的という実証不可能な原理が我々の常識になった背景には、時代的なパラダイムが、中世のような魂(意志)を持つ自然、つまり法則も自然の意志次第で変わるとする「生物モデル的自然観」から、近代に「機械論的自然観」へと変ったことがあります。この移行により、「機械論的自然観」は、敢えて実証することも論証することも必要がないものとなり、絶対的な自然観となりました。 この「自然の斉一性原理」を前提にして、力学的で因果論的説明や因果論的法則観が唱えられています。つまり、近代科学の根本には、実証も論証も不可能な「自然の斉一性原理」があり、更にこの原理を支えているのが、これもまた実証も論証も不可能な近代の時代的パラダイムである「機械論的自然観」です。 また、我々が認識している世界では、動物は動物、植物は植物、物質は物質としてそれぞれが類種的な独特の内部構造と秩序を持った合法則的存在と思念されているのも「自然の斉一性原理」が根拠です。また、実証的科学研究では、サンプルとしての鉄の場合なら、日本の鉄1グラムはアメリカの鉄1グラムと同じで、本質的同型性がある同一の資料として研究が行なわれ、全ての対象資料を検証をせずとも法則的一般化が可能とされているのも「自然の斉一性原理」が機能しているからです。 この原理は科学研究の大前提ですが、これが通常の前提、理論的前提以上の権利、つまり、法則の法則性、メタレベルの法則性としての権利を持つと言える特別な根拠はありません。 これは、例えば星座というものを考えてみればわかります。星座には、バビロニア式、古代中国式、マヤ式、ギリシャ・ローマ式などがありますが、「主観ー客観」図式の認識論に妥協した言い方をすれば、これらは「客観的与件と主観的活動の協働の産物」であり、客観的与件そのものでも、主観的想像そのものでもありません。 現代人が近代的的天文学の知識で近代的星座を考案しても、これも客観と主観の協働の産物です。ですから、近代的星座も含めてどの星座観も、我々の文化圏では星座というものはこのように考えられていると言う権利しかありませんので、どの星座観もその真理性については同等の権利しかありません。 このように、我々が存在界の客観的に実在する内在的秩序や法則として認識しているものは、我々が創造した内在的秩序を存在界に外挿したものや、そうしたものを理念的に純化したもの、あるいは擬人法的に存在界に転移したものです。 この意味で存在界の客観的内在的秩序や法則とされているものは、「主観ー客観」図式の認識論に妥協した言い方をすれば、「客観」と「主観」の協働の産物であり、純然たる「客観的実相自体」とは言えません。 ですから、自然の斉一性を保証している類種的レベルでの自然物の客観的で同一的な内部的な秩序や法則というものも、「客観」と「主観」の協働の産物です。 科学主義者は、科学の実証性や論証性を誇り、実証性や論証性が不十分であるとして様々な思潮を排撃してきました。しかし、科学自体が様々な実証も論証もされていない学派的指導原理=ハードコアにより支えられていますし、その学派的ハードコアの根本には法則の法則性、メタレベルの法則性として、これまた実証も論証もされていない「自然の斉一性原理」があり、更にこの「原理」は実証も論証も不可能なパラダイムである「機械論的自然観」により支えられています。つまり、近代科学の根本には、実証も論証も不可能な「機械論的自然観」があります。 理性絶対主義、ロゴス絶対主義の科学主義者が科学の実証性や論証性を誇っても、そもそも無前提、無条件的な実証や論証は不可能であり、あるとあらゆる実証や論証には、実証も論証もされていない前提があります。実証や論証されれば信憑性が増大するのは確かですが、だからと言って確実な理論と実証や論証されたとは言えず、その前提が正しければという条件付きの実証や論証に過ぎません。 従って、あらゆる人間の確信は蓋然性として信憑しているものであり、究極的には、あらゆる真理と目されているものは共通認識、共同主観、共同幻想です。 ですから、ヘーゲルが「あらゆる事物は判断である」(小論理学)と言った背景には、ヘーゲルが意識(知性・理性)の歴史的社会的被拘束性を自覚することで生まれたヘーゲルの透徹した理性観や近代科学観があり、マルクスも弁証法論者として、この理性観や近代科学観を継承し、「機械論的自然観」に替わる世界観としての「唯物史観」を構築しました。 つづく
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| Subject: [shakaisisouken][00125]
非実体主義的つぶやき(5)
非実体主義的つぶやき(5) BY石井 Eところで、物理学的世界を真実の世界と考える現代の弁証法論者には、弁証法の「AがBであり且つ非Bである」とは、アリストテレスの「同時に、同じ関係において」という限定を無視していると言い、矛盾律を肯定する弁証法論者もいます。 弁証法論者も、近代科学者と同じく形而上学的な実有(ウシア)の世界を否定します。しかし、近代科学者と異なるのは、あらゆるものが一瞬の休み無く変化している生成流転の現象世界こそが「真実の世界」と考える点です。 弁証法論者は、生成流転の現象世界こそが「真実の世界」と考えるので、そもそも同じものはないと考えます。例えば、科学者は二つの水素原子を同じ水素原子が2個あると言いますが、現代の弁証法論者なら、それぞれの水素原子は電子の位置までが同じではありませんから、学理的には同じ水素原子が2個あるとは考えません。 また、弁証法論者は、同時についても科学者の実験や観測の場合のように、同時と言ってもある程度の時間的な幅を許容するようなことはせずに、同時を厳密に考えて同時はありえないと考えます。同様に同じ関係もありえないと考えます。 ですから、そもそも、弁証法的世界観では「同じものが、同時に、同じ関係において、同じものに、属し且つ属さない、ということはありえない」という矛盾律の「同じもの」や「同時」、「同じ関係」ということ自体を否定し、「属し且つ属さない」というのも「属し」と言い次の瞬間に「且つ属さない」と言うしかありませんから、これは同時的措定ではないと考えます。 ですから、弁証法論者は現実の生成流転の現象世界では、あらゆる同一的措定自体が不可能ですから、矛盾律は原理的に無意味であるとして否定します。 Fそもそも、弁証法論者であれば、物理学的世界は近代人が科学主義的思考で想像した世界に過ぎず、実在しないと考えるはずです。なぜなら、感性的な日常的経験世界から、色や匂い、音などの主観的な要素を排除したある本質的な構造、あるいは実質だけが、真に存在する客観的世界、物理学的世界とされていますが、真に存在する客観的世界というなら、色や匂い、音などの主観的な要素を排除しただけでは済まないからです。 というのは、本来の弁証法論者なら、あらゆるものが瞬時の休み無く変化していると考えるので、残りの「本質的な構造、あるいは実質」というものも、瞬時の休み無く変化していると考えます。すると、何一つとして同一性を保つものは存在しません。 ですから、「本質的な構造」とか「実質」というもの自体が存在しないのです。 確かに、ある瞬間をとらえて、その瞬間の世界の実態の「構造」を言い当てることは出来るかもしれませんが、その「構造」は次の瞬間には別の「構造」に変化してしまい持続しませんので、ある瞬間の「構造」として言い当てた「構造」は直ぐに誤謬となります。 また、「実質」というものは、対象の本質ですから対象が内在的に具えているある持続的な性質です。ですから、仮にある瞬間のそのようなものが把握できたとしても、直後には別の「実質」に変化してしまい、最初の「実質」は直ぐに誤謬となります。 ですから、「実質」というものも同様に存在しません。 従って、物理学的世界というものは、弁証法論者は人間の想像世界であり、実在しないと考えます。そして、むしろ、色や匂い、音などの主観的な要素を含めた生成流転の現象世界、日常的経験世界だけしか「存在」しないと考えます。 そして、この日常的経験世界を近代的パラダイムに妥協した言い方で表現すれば、我々の「主観」と「客観」の合成世界と考え、純粋に我々の「主観」から独立した自存的で客観的な物理学的世界なるものは実在しないと考えます。 もちろん、生物が誕生する前、人間が誕生する前には何らかの世界は実在したはずです。しかし、それは種が木になれば種は消失するように、現在では我々が日常的に経験している色や匂い、音などの主観的な要素を含めた生成流転の現象世界として存在していると考えます。 ですから、弁証法論者は現象主義者でもあり、2世界説を否定し、生成流転の現象世界だけが唯一の世界と考えますので、不可知論でもありません。 つまり、科学主義的に現象世界を主観的なものと客観的なものとの混合物とは考えず、一瞬の休み無く変化している現象世界の全てが、つまり色や匂い、音以外の全てが主観的なものと客観的なものとの合成物と考えます。 Gしかし、認識対象が何らかの同一性を持つ実体として、何らかの内在的性質を具えている実体として現出するのも確かです。しかし、それはそのように現出する機制があるからであり、認識対象の同一性とは物理学的同一性ではなく、関係性の同一性だからです。 対象が物理学的に変化しても、関係性の同一性は変化しない場合があるので、この関係性の反照規定的物象化が事象に内在的な性質があるかのような世界観=物的世界観=実体主義的世界観を生み出したのです。 このような世界観は、相対性理論とも整合的です。なぜなら、相対性理論では地球という運動系では木の棒Aは10メートルの長さでも、木の棒Aには普遍的な長さなるものは存在しないと考えるので、相対性理論では普遍的な物の同一性を否定しているからです。 相対性理論は絶対的普遍的な時間や空間、質量といったものの実在を否定し、運動系毎の相対的な時間や空間、質量しか認めないので、物の同一性も相対的だからです。 地球上で10メートルの長さの木の棒Aという存在は、我々の「主観」の産物ではありませんが、「客観」そのものでもなく、両者の合成物です。 そもそも、人間の認識能力を感性と知性に分離するのは、近代的パラダイムのドグマです。この二つは実際は一体化していて切り離すことは出来ず、我々は感性的な認識と知性的な認識とを同時的に行っています。 従って、視覚であれば、客観の色や形などの感性的情報が認識主観の知性により加工され、認識されるという認識論は誤りであり、客観は最初から何者かとして認識されています。つまり、何かの意味のあるものしか人間は認識しません。意味として認識できないものは、たとえその情報が脳に届いても脳は無視します。 つづく |
| 非実体主義的つぶやき(4)
BY石井 D世界は生成流転していると考える弁証法の立場では、決定論は原理的に認められません。なぜなら、原理的に物理学的な同一性が認められないからです。物理学的な同一性を認めるということは「同じものが、同時に、同じ関係において、同じものに、属し且つ属さない、ということはありえない」という矛盾律を認めることであり、矛盾の存在を認める弁証法が否定されてしまうからです。 アリストテレス・スコラ的な伝統的論理学(形式論理学)における根本的定律は、矛盾律、同一律、排中律ですが、その中でも矛盾律が中心的定律です。矛盾律により、矛盾が否定されることで逆に同一性が認められてきたのですが、この矛盾律には前提があり、その条件のもとでは妥当するというものです。 弁証法の立場では、世界は生成流転しているので同じものや同じ関係、同時、同じ事態なるものは原理的に存立しないので、矛盾律は近似的、便宜的、暫定的な措定でしかありません。しかし、世界を2世界説的、2要素説的に分け、一方の生成流転の現象世界では確かに矛盾律は原理的に存立しないが、もう一つの「真実の世界」(もしくは世界の真実在的要素)は不変不易の同一性の世界であるので、矛盾律はそのまま妥当するし、むしろ矛盾律が妥当する世界こそが真実の世界という前提です。このように、矛盾律は、現象と区別された可想の世界、つまり伝統的な形而上学的世界で妥当するものと考えられていました。 近代になると、さすがにこうした形而上学的世界観は否定されましたが、現象と可想という2分法的発想法は近代にも継承されています。というのは、近代には、かつては仮象の世界とされていた日常的経験の世界が一応、真実の世界と認められました。しかし、感性的な日常的経験世界には、色や匂い、音などの主観的な要素もあることから、この感性的要素も含めた日常的世界はそのままでは真実の世界ではなく、そうした主観的な要素を排除したある本質的な構造、あるいは実質だけが真実の客観的世界とされ、これが矛盾律が妥当する真実の世界として近代にも継承されたからです。 そして、この真実の世界とされたのが物理学的世界です。この物理学的世界に色や匂い、音などの主観的な要素を付与すると我々が日常的に経験しているこの現象的世界となるわけです。我々が直接経験できるのは、色あり音ありの現象世界で、この物理学的世界を直接経験することはできないとされています。 この物理学的世界は、日常的経験の世界から色などの主観的な要素を想像力で排除した純粋に観念的世界、可想的世界として想像することしかできない世界です。そして、この物理学的世界は、矛盾律が適用できる形式論理的世界であり、また、この世界は主観の対極にあり、主観から独立した客観的世界、近代合理主義的世界と考えられています。 そして、この客観的世界と我々の主観との間には、中間項としての意識、観念があるとされ、それが近代的認識論の<対象的実在ー意識内容ー意識作用>という3項図式の中間項である<意識内容>の領域です。そして、この領域に色などの主観的な要素が付与された日常的経験の世界があるとされています。近代的認識論では、この日常的世界だけが我々の主観の意識作用により直接認識できる世界とされ、物理学的世界である<対象的実在>は直接認識することは不可能と考えられています。 このように、かつての2世界説は、物理学的世界と日常的世界=感性的世界という2世界説に止揚されながら、現在も存続しています。この物理学的世界は、形式論理学に基づく数学が適用され、数学によってのみ正解に記述できるさえ考えられたこともあるように、矛盾律が原理的に適用される世界なので同一性も成り立つ世界です。従って、矛盾律が原理的に適用される世界こそが真実の世界という思想は近代科学、近代合理主義でも、そのまま維持されています。 ですから、同一性は原理的に認めない弁証法的世界観では、決定論は原理的に認められないのですが、逆に近代合理主義世界観では決定論は原理的に認められますし、むしろ、決定論が原理的に認められる機械論的自然観の近代合理主義的世界こそが真実の世界と考えられています。 つづく
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| 非実体主義的つぶやき(3)
BY石井 因果律の学理的妥当性を主張しようとする哲学者はまず、Aという事象ないし状態には、Bという条件下では、必然的にCという事象ないし状態が継起するという枠組を規定します。しかし、これだけでは先述したように昼の次に夜といったことまで含まれてしまうので、次に条件Bの下では、Aの作用によりCが発生することを規定し、この作用をもたらすのが、我々の認識主観から独立して存在しているものという意味で客観的に実在している<力>であると言います。 しかし、我々が経験できるのは状態Aから状態Cへの推移の具体相だけです。<力>自体は認識できませんが、<力>の効果により間接的に認識できると思念されることで、A・C間には因果関係があると主張されます。 この因果律の主張には、この<力>以外に「法則的必然性」、「自然の斉一性」という二つの論点がありますが、<力>については既に述べましたので、次に「法則的必然性」について検討します。 C法則的必然性 因果論、因果律の法則的必然性というものは、AがBという条件下では、Cが必然的に継起すると考える必然的連関性の評価の問題です。 この法則的必然性でまず問題となるのは、このA、B、Cが1回だけの現象ではなく、A、B、Cが「本質的同一性」を持つものと想定されることで、繰り返し起こる現象とされることです。 我々が過去の経験により言えることは、過去にはこのようなことが例外なく起きたということまでです。しかし、因果論者はこの例外なき継起に一義的必然性という意味も含めますが、これは実証されていません。 因果論者は、経験的データを手掛かりにして、法則を「発見」しようとしますが、発見するということは法則は既在するもの、実在するものと思念している向きもありますが、法則自体がもののように物理的に実在するわけがありませんので、法則の存在論的性格は特殊な性格を帯びています。 更に、因果論者の一部には、一回だけ起こる現象でも法則通りに起こると考える決定論を主張する人もいます。ところが、世の中には偶然ということもあると考える人もいますので、一回だけなら偶然かもしれないと言う人もいます。 この偶然論に対して決定論者は、認識の不十分性を理由にして、必然性の無知と批判します。しかし、この客観的偶然性の有無の問題は、原理的には論証も実証も出来ない世界観に基づく判断の問題です。 また、非決定論者にも「自由意志」を非実証的に主張する者や、こうした「自由意志」を否定しながらも、自然の客観的偶然性=非一義性を論拠とする非決定論者もいます。 誰も客観的法則が実在することを直接確認した人はいませんから、結局のところ、客観的法則が実在するという信念は、実態的には経験的データを手掛かりにして、「発見」したものであり、事象を整合的統一的に説明するための構成的措定により生まれたものとしか言い様がありません。 しかし、客観的法則が実在するという信念だけなら、一回だけ起こる現象でも法則通りに起こると考える決定論にはなりません。この決定論が生まれる背景には、特殊な事情があります。 この事情とは、例えば不純物が少ない鉄を酸化させれば、より純粋な酸化鉄が得られるという経験知の存在です。この経験知を背景にして、先ほどのA、B、Cの「本質的同一性」を、更に厳格な同一性と想定し、その極限において、例外なき継起に一義的必然性という意味を含めて、たとえ一回だけ起こる現象でも、法則が予測する通りの事象は必ず起こると考えると決定論になります。 科学者は、再現実験で予想と異なる結果Cがでると、最初のAに不純物が予想以上にあり、Aの同一性に問題があったとか、B条件の精度に問題があり、B条件が同一ではなかったとか考え、前件が同一であれば、後件も同一になると考えますが、これは類推であって、確証不可能です。 決定論は、Aの「本質的同一性」を高めれば、Cの「本質的同一性」も高まるという経験的データに基づいるので、むやみやたらに決定論が唱えられるわけではありませんが、ここに決定論の飛躍があります。 というのは、再現実験をする場合の現実問題として、「本質的同一性」を高め、その極限として質的、精度的な「本質的同一性」を実現した再現実験をすることは、人間にはコントロール不能の「揺動」現象や「量子力学的不確定性」から不可能であり、本質的に同一なAとか本質的に同一なCとかを仮想することはできても、実現することは不可能だからです。 例えば、実際の量子力学的ミクロ世界の実験では、前件の同一性を理論的に可能な最大限の精度で高め、たとえ同一と規定して実験をしても、実際には非同一であり、ある幅の範囲でしか実験することはできませんので、後件も非同一になってしまいます。マクロ世界では、ミクロの差異が相殺されても、マクロはミクロの「複合体」なので、原理的には不確定性が残ります。 従って、物理的に「本質的同一性」を高め、その極限において厳格な同一性が実現すれば、一回だけ起こる現象でも法則が予測する通りの結果が起こると考える決定論は、現実には実現不可能であり、誤りです。 これに対し弁証法的世界観では、あらゆるものが一瞬の休み無く変化していると考えるので、そもそも、原理的には、同じもの、同じ関係、同じ事態ということはないという立場ですから、当然ですが物理的「本質的同一性」も否定します、そこで、次に、この弁証法的世界観での決定論についての評価などを述べてみたいと思います。 <つづく> 非実体主義的つぶやき(2) BY石井 B重力という概念を使わなくとも、物が下に落ちる現象を説明出来る例、つまり「重力は運動系の相対的加速度という関係規定」の例として、広松は次のようなロケットの思考実験を紹介しています。 ある人を目隠しして、ロケットに乗せ発射します。この人のいるロケットの部屋は、普通の部屋の造りで完全防音、更に全く揺れない構造になっているとします。そして、このロケットが飛ぶ速度を地球に彗星が落ちる加速度と同じ、つまり最初は早く、地球から遠ざかるに連れて遅く飛ばしている状態で、中の人がリンゴを持って空中でそっと手を離すと、りんごは地上と同じように床に「落ち」ます。 この時、リンゴには全く<力>が働いていなくともリンゴが床に「落ち」るのは、床の方がロケットの上昇とともに上昇して空中に停止していたリンゴに衝突したからですが、この人は重力によりリンゴが床に落ちたと思うはずです。 このように、我々が重力の作用と考える現象でも、重力も含めて一切の<力>という概念を使わなくとも説明することが出来ます。 もちろん、これは地球上での物の「落下」自体を説明する思考実験ではありませんが、物理学者が重力を起こすものとして想定し、必死に探している「重力子」は今でも発見されていません。 (つづく)
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| 非実体主義的つぶやき(1)
BY石井 ●因果論について 弁証法を説いたヘーゲルは、因果という概念は便宜的、暫定的にしか使えないこと、「相互作用」概念へと止揚されるべきものと主張しました。弁証法は、因果論を相互作用論に止揚すべきと説く立場です。量子物理学には、因果的説明主義から、函数的記述主義への移行を説く学派もあります。 @古代の因果論は、結果の因果論で、途中は道草することも可能でしたが、近代的因果論は、機械的に一義的決定論的因果論となりました。因果論というのは、自然を擬人法的に解釈したもので、昼の後で夜が必然的に継起しても、因果関係とはされず、原因にはひき起こすという作動的、起動的な関係が必要です。 また、因果関係の必然性は規則のような規範的な当為の必然性ではなく、事実必然性と考えられていますが、事実必然性とは、当為必然性を擬物化したものです。 というのは、原因が必然的に結果をひき起こすということは、強制的にひき起こすということですが、この強制が物理的強制であれば、原因としても「そうならざるを得ない」ということですから、原因は起動的というよりも、むしろ伝導的媒体的存在,、つまり受動的存在となり、別の真の原因があることになってしまいます。 原因が原因として認定されるには、結果をひき起こす起動者としての意志的な力を発揮するという主体的な要素が必要です。 つまり、原因が人ではなく物や事であれ、事実必然的なものというよりは、当為必然的なもの、意志的な力を発揮するものでなければ原因とは言えません。 原因を物理学的なものと考えると、その原因とされているものは媒体に過ぎず、別の真の原因があることになってしまうのです。となると、因果論は、原因である物や事には意志があると想定しなければ成立しませんので、因果論は破綻しています。 因果関係と考えられているものは、物理学的には相互作用であり、砲弾が城壁に当たり、城壁が破壊された場合の「原因」は、常識では砲弾ですが、物理学的に言えば、砲弾ではなく重力の作用と考えるべきで、砲弾の命中は機縁に過ぎません。 因果論は、日常的概念であり、また、確かに「科学技術」では因果論的思考が有効ですが、学理的概念ではありません。 A因果論が生きのびているのは、結局は<力>という概念が生き延びているからですが、結論から言えば、<力>は物理的関係性が物象化したもので、物象化的錯視により実在と考えられているものです。 <力>を現す<f=ma>は、<力>の量的関係を表しているもので、<力>の実質を規定するものではあません。 相対性理論では、重力という<力>は、運動系の相対的加速度という関係規定だそうで、重力なるものは、加速度運動という変化現相を統一的、整合的に説明するために構成的に措定されたものの一つです。 <力>は人間が行動する際に体感する起動的なあるものを起源としたもので、どんなに、因果論から擬人法的な要素を排除しようとしても、結局は、原因とされるものには意志的要素が必要なので、擬人法的構制からは逃れられません。 原因が自然現象であれ、意志的要素がなければ原因ではないので、因果関係は自然現象の擬人化的解釈です。 (つづく) |
ベーシックインカムの意義と限界 紅林進 (HP担当注:2010年6月14日改訂版) <ベーシックインカムとは> 近年、日本でも「ベーシックインカム」ということが注目されだした。欧米では200年ほど前から萌芽的に主張され、米国では1960年代の福祉権運動やフェミニズム運動の中でも主張され、公民権運動のキング牧師も主張したが、日本でも今年2010年3月に「ベーシックインカム日本ネットワーク」(BIJN)が結成されるなど、ようやく注目されだした。 「ベーシックインカム」とは、すべての個人に、生存(単なる「生存」ではなく、「人間的な生活」)するに足る所得を、個人単位で、定期的に、審査なしで、無条件、普遍的に現金給付をしようというものである。(人によって多少定義の仕方は異なる)「基本所得」とか、「基礎所得」などと訳されることもあるが、日本語の定着した訳語がないため、「ベーシックインカム」(BI)とカタカナ英語で呼ばれることが多い。後述の村岡到氏は生存権を保障・実現する所得ということを明確にするために「生存権所得」という用語を用いている。 また「生存(生活)するに足る所得」という意味では厳密な意味での「ベーシックインカム」とは言えないものの、より低額の給付をする部分的「ベーシックインカム」も広義の「ベーシックインカム」に含められることがあるが、完全な「ベーシックインカム」実現のための過渡的形態としては意味があっても、それで「ベーシックインカム」が実現されたかのように、あるいはその代替物と考えるのは誤りである。 一部では「ベーシックインカム」が実現されれば、すべての問題がバラ色に解決されるような論調も見られるが、その意義とともにその限界も押さておくことが必要である。 ベーシックインカムの意義については多くの論者によって語られているので、ここではその問題点や限界、「ベーシックインカム」のみですべての問題が解決されるわけではないこと、資本主義という生産の在り方自体を変える必要性を中心に述べる。 <ベーシックインカムのみでは搾取や格差はなくならない> すべての人に生存権を保障するものとして、それに必要な収入・所得を普遍的に保証するという意味では、「ベーシックインカム」は必要だと私は考える。 また「生活保護」等の受給者にスティグマを与えるのではなく、また「資格審査」の名の下のハラスメントや人権侵害を防ぐためにも、生存・生活するための当然の権理として、誰でも普遍的に生存・生活のための「所得」が保証される「ベーシックインカム」制度の導入は望ましいと思う。 ただし生産や分配、消費のシステムを含めた経済社会システム、具体的には資本主義経済システム全体の変革と切り離して「ベーシックインカム」のみの導入を考えることは誤り。 資本主義という、生産手段の私的所有と利潤原理に基づく、搾取・格差を生み出す経済のシステムをそのままにして、「ベーシックインカム」で搾取・格差をなくすことはできない。 「ベーシックインカム」自体は、生存や生活に必要な所得を保証するという意味で、(絶対的)「貧困」の解消(それ自体は重要な意義があるが)にはなっても、搾取や格差自体をなくすものではない。相対的貧困も残る。ベーシックインカムは資本・賃労働という資本主義的生産関係自体を廃止するものではない。剰余労働・剰余価値の搾取も引き続き行われる。 <労働力商品化を脅かすベーシックインカム> 資本主義は人々から生産手段を奪って、自らの労働力を売り(労働力の商品化)、生産手段を所有する資本家の下で働く以外に生存・生活できない労働者(プロレタリアート・無産者)を作り出して初めて成立した。労働者にその生存や生活に十分な収入が保障されていたら、何も資本(家)の下で働く必要がないのであり、資本(家)は労働力を確保できなくなる。 ここに資本家や資本主義経済体制の擁護者たちが「ベーシックインカム」に反対する原理的根源があり、それは労働者や民衆の間にも根強い「働かざる者食うべからず」という倫理観や価値観ともあいまって、「ベーシックインカム」への強力な反対論を形成する。 しかしだからこそ資本家や資本主義経済体制の擁護者が受け入れがたい、この「ベーシックインカム」の要求を運動として展開することは、資本主義に対する批判ともなり、運動論的には意義がある。ただし同時に上記の限界も押さえておき、それを運動の中で明らかにし、資本主義経済体制、取り分け生産手段の私的所有の問題の変革に結びつけて行くことが必要かつ重要。 現在の普通選挙を土台とする民主制の下では、資本家や資本の意向が必ずしも通るとは限らず、世論とそれを背景とする選挙、議会の動向によっては、資本に制約を加えたり、資本主義経済体制自体の変革を実現することも可能である。 従って世論の動向によっては、ベーシックインカムやベーシックインカム的なもの(部分的な「ベーシックインカム」、民主党の「子ども手当」や米国で部分的に実施されている「負の所得税」等)が導入される可能性もある。(全面的な導入には大きな抵抗と困難があると思うが) <ベーシックインカムが実現すれば、資本主義は自動的に崩壊するか?> それでは「ベーシックインカム」が実現すれば、資本主義は労働力を確保できなくなり、自動的に崩壊するかというと、そう単純ではない。 資本主義を過大評価するのも誤りであるが、資本主義の適応力、柔軟性、しぶとさを過小評価したり軽視するのも同じく誤りである。 資本主義はロシア革命に始まる「社会主義」の脅威に対応して、「福祉」や「社会保障」、計画経済的要素も取り入れて、変容してきた。金本位制も放棄して、管理通貨制に移行した。自らの延命と利潤の確保のためには、あらゆる譲歩や変容をも厭わないのである。もっともソ連崩壊後の新自由主義の台頭に見られるように、その脅威と圧力がなくなれば絶えず資本主義本来の強欲な市場原理主義に戻ろうとするが。 生産手段の私的所有という資本主義経済体制そのものが変革されない限り、生産手段を所有しているのは、資本家や資本(取り分け大資本)であり、小さな自営業やサービス業、そしてSOHOと言われるような資本力をあまり必要としない部門などは別として、大工場や大規模な運輸、流通などの部門では、そこで働こうと思えば、それら生産手段を所有している大資本の下で働かざるを得ない。人々は生活が保障されたからといって、皆が働かなくなるわけではなく、働き甲斐、社会への参加や承認を求めて、多くの人々は働くものである。しかし生産手段の私的所有の下では、生活が保障されたからといって生産手段を持っていない多くの人々は、依然、生産手段を所有する資本の下で働くしかないのである。依然、多くの人々にとって労働力の商品化は続くのである。 ベーシックインカムが導入されれば、資本は労働力を確保するために高賃金を支払わないと労働力を確保できなくなりそうであるが、資本はその労賃コストの上昇分を製品価格に転化し、それは消費者物価を上昇させ、ベーシックインカムで給付される所得の購買力を目減りさせることになる。 あるいは労働力の再生産に必要な収入がベーシックインカムで賄われるとすると、労働力を再生産するに足る賃金という意味では、資本の側は、その分、賃金を引き下げることも可能になる。実際に資本主義を擁護する側のベーシックインカム論者はそれを狙っている。 もっとも賃金は労働力の再生産費によって自動的に決まるものではなく、労働者と資本の側との力関係、闘争によって左右されるので、この資本の側の目論見が実現するかどうかは、労働者の闘争や圧力そして社会の側が資本をいかに規制するかにかかっている。 またベーシックインカムという生活保障があるために、雇用の非正規化やパートタイム化、生産需要や企業の都合に合わせて雇用を調整することが一層やりやすくなる側面もある。(もっとも生活がある程度保障された上でのパートタイム労働などは、現状の非正規雇用と異なり、労働者にとっても必ずしもマイナス面ばかりではないが) <ベーシックインカムの新自由主義とも親和的な側面> ベーシックインカム論者(たとえば山森亮氏、小沢修司氏など)の多くも、ベーシックインカムは生産関係に無関係であって、それ自体は資本主義を変えるものではないと主張する。確かにそうであるからこそ、その限界も在るのであり、ミルトン・フリードマンらの新自由主義者やリバタリアンたちも「ベーシックインカム」を主張しているし、ヨーロッパ有数のドラッグストアーチェーン「デーエム」の経営者ゲッツ・ヴェルナーも資本家・経営者の立場から「ベーシックインカム」の導入を積極的に主張しているし、最近ではあの堀江貴文氏(ホリエモン)さえ、 「ベーシックインカム」を主張しているとのこと。 もっとも彼らの意図は生存権を保障するに足る十分な額の「ベーシックインカム」ではなく、わずかの額の部分的な「ベーシックインカム」(1962年に「負の所得税」を提唱したフリードマンは、1968年にサミュエルソンやトービンら全米約1200人の経済学者が、「負の所得税」を含む広義のベーシックインカムのような政策を導入すべきという声明を出したとき、フリードマンは提示されている支給額が大きすぎると言って署名に参加しなかったとのこと)で、それによって社会保障を縮小・切捨て、企業の社会保険料負担を肩代わり・撤廃させようとする、そしてさらには賃下げを狙った、あくまで資本の側に都合のよい主張なのである。「ベーシックインカム」には、新自由主義とも親和的な側面もあることは忘れてはならない。先にも確認したように、労働力の再生産に必要な所得がベーシックインカムで賄われるとすると、労働力を再生産するに足る賃金という意味では、資本の側は、その分、賃金を引き下げることも可能になる。 <労働の人間化や3K仕事などの改善にはプラス> このようにベーシックインカムの導入はそれだけでは剰余労働の搾取や格差をなくすものではないが、しかしその場合でも、ベーシックインカムで、人々が生活するに十分な所得が保証されていれば、人々の嫌がる、3K労働の仕事などは、労働力の確保が困難になる。(それは私的企業のみならず、公有企業や協同組合企業でも同様)従ってそれでも人員を確保しようと思えば、その仕事の賃金を上げざるを得なくなる。また福利厚生などでもそれなりに配慮せざるを得なくなる。またそれら仕事の機械化や危険や苦痛を減らし、人間らしい労働に近づける努力もせざるを得なくなる。あるいは単なる賃金や福利厚生の改善だけでなく、職場民主主義や現場労働者の発言権の向上、さらには労使共同決定などの経営に対する参加や規制につなげてゆける契機にもなり得る。これらのことはベーシックインカムが実現した場合の大きな利点、意義の重要な柱である。(もっとも3K労働を外国人労働者に、それも低賃金でやらせようとする方向に向かうことは警戒しなければならない。実際EU諸国ではそれが広範囲行われてきた。) また賃金の高低のみならず、企業の社会的評判も就職にあたっての企業選択の重要な要素になって、環境に悪影響を与えている企業や社会的に批判を受けている企業は人材の確保が困難になる。軍需企業などもそれに対する批判が高まれば、同じような影響を受ける。企業は製品販売のみならず、人材確保という観点からもCSR(企業の社会的責任)により注意を払う必要に迫られる。 また何も資本の下で搾取されながら働く必要がなくなる(ただし主要な生産手段は依然、大資本に独占されていることは忘れてはならない)ので、自分たちで社会的企業や協同組合企業を起こしたり、NGO、NPOなどの社会的活動に励むことも可能になる。また芸術活動や自己実現型の労働や表現もよりしやすくなる。芸術家にとっての作品創作が喜びや楽しみであるように、自己の本当にしたい仕事・労働を追求することもよりしやすくなる。(私は「労働」が喜びになるように社会全体の「労働」の在り方を変革して行くべきだと考える。)ここにベーシックインカムが実現した場合のもうひとつの非常に重要な意義がある。 <形式的平等と実質的平等> ベーシックインカムのもうひとつの特徴は、普遍的に、一律に、同額の貨幣所得を支給するという「形式的平等性」である。確かに「形式的平等」は必要である。しかしそれだけでは充分ではない。障害を持った人はそれを補い、克服するために必要なものが生じる。老人が若者に比べて医療費がかかるのは当然かつ「必要なこと」である。「後期高齢者」などと称してそれを切り捨てるのではなく、それを「必要」と認めて社会全体で負担することこそが必要なのである。つまり「形式的平等」にとどまったのでは、真の平等は実現されないのであり、さらに「実質的平等」を保障する制度も併せて用意されるべきなのである。 マルクスは共産主義の高次の段階では、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(『ゴータ綱領批判』)と言ったが、その「必要」は人それぞれに異なる。形式的平等だけでは、その必要を満たし、実質的平等を達成することはできない。 <現金給付と現物給付、貨幣経済化・市場経済化> また「ベーシックインカム」は、「一定額」の「貨幣所得」という市場経済的な手段で人々の必要を満たすということの持つ意味も忘れてはならない。食料や住居、医療などをその「必要に応じて」「現物給付」するわけではない。「配給」や「現物給付」ではなく、一定額の「貨幣所得」という形で提供されることは、受給者の側に、「何をどれだけ」という選択の自由が確保されるので、その意味では肯定的意味を持つが、それは同時にそれまで貨幣経済によらず担われていたものを貨幣経済化、市場経済化するという側面も持つ。現在の民主党主導政権が実施しようとしている「子ども手当」には部分的ベーシックインカム的側面もあり、その意味では積極的側面もあると思うが、それで十分なのではなく、託児所や保育園の整備・拡充など「現物給付」的側面も同時に必要なのである。また住宅手当や住宅控除という貨幣経済的手法だけでなく、公営住宅の拡充等も必要であり、すべてを現金給付で済ませることは誤りである。同時に皆が利用できる公園や公共図書館といった「公共財」の整備拡充なども欠かせないのである。 この貨幣経済化、市場経済化の問題は、ベーシックインカム自体の問題とは多少異なるが、家事労働などアンペイド・ワークの有償化(もちろんそれは男女差別やジェンダーの問題解決という意味では有意義だが)や家事・介護などの市場経済化とも関連する問題である。アンペイド・ワークの可視化や家事・介護などの社会化は必要であるが、共同体を解体し、個人化、市場化すればよいというものではない。 なお貧困問題やハウジングプアー問題に取り組む稲葉剛氏(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事長)は「ベーシックインカム」ではなく、「ベーシックニーズ」ということを提唱している。家賃や生活必需物資を安くして、たとえば月5万円で生活できるようにしようという提案である。これも生活必需物資やサービスは基本的に安く提供して、その必要が誰でも満たせるものにしようというものと解される。(もちろんそれを実現させるためには、生産と分配のシステムも考えなければならないが、稲葉氏がそこまで考えて主張しているのかどうかはわからないが・・・) <貨幣経済・市場経済ではなく生存権を保障するものとしての「生活カード」制> ところで資本主義に代わる将来社会の構想において、マルクスの考えたように「市場」や「貨幣」を完全に廃して経済社会を運営できるか、それが望ましいかどうかは、私自身も結論の出ない問題であるが、村岡到氏は「生活カード」制という貨幣経済・市場経済に代わるシステムを提唱しており、そこでは「生活カード」が各人に個人単位で配布され、そのカードのポイント(村岡氏はその単位を「ニーズ」(必要)と名づける)で、生活に必要な物資やサービスを提供され、それによって生存権が保障されるというものである。この「生活カード」がクレジットカードやプリペイドカードなどと異なるのは、この「生活カード」は貨幣とは違って、あくまで物資やサービスの受給券、引換券なのであり、譲渡や交換はできず、従って蓄蔵手段となりえないものである。それで消費物資やサービスの入手はできるが生産手段を購入することはできない。それでいて、配給制とは異なって、消費選択の自由は確保されるのである。もちろん、「生活カード」制はそれだけで独立に成立するのではなく、村岡氏の構想においては、生産手段の社会的所有(すなわち、生産手段の私的所有の廃止)と「協議経済」という生産のシステムと一体となって機能するのである。この構想は、管理社会化の懸念などいくつかの懸念はあるものの、市場経済に代わる具体的なシステムの構想として、真剣に検討されるべき、優れた構想だと思う。(なお村岡到氏は、日本においてベーシックインカムにいち早く注目していたが、彼は「ベーシックインカム」という用語より「生存権所得」という用語の方が「生存権を保障する」ということが明確になるのでよいと主張している。) <労働と分配の分離> また「労働」と「分配」をまったく切り離してよいのかどうかは意見が分かれると思うが、また何を「労働」とするか(賃労働、非賃労働、家事労働などのアンペイド・ワーク、肉体労働、精神労働、芸術活動・創作活動など)という問題はあるが、「労働」を軽視したり、軽蔑するのではなく、「労働」を社会を構成・再生産する重要な要素として重視し、多様な働き方をより豊かに保障する必要がある。 また労働できない人々や労働が困難な人々に所得や収入を保障することは必要だが、また資本の下での搾取と抑圧を受ける賃労働を否定する考えと運動は必要だが、同時に労働の現場で「労働組合」などに団結・連帯して闘うこと、失業に対して、「職」を寄こせと要求し闘うことも、必要かつ重要である。個人化や「ベーシックインカム」を「与えられる」という受身ではなく、仲間と連帯し、団結して、権理や要求を闘い獲って行くという精神と運動も失ってはならない。それなくして、資本主義の変革も、労働者の解放もないと思う。 なお十分な額のベーシックインカムが導入されれば、労働者は、いやならその職場をやめてしまえばよいので、資本・経営者に対して労働者の発言権は強まり、労使交渉においても労働組合の交渉力が強まると考えられるが、一方では「いやならその職場をやめてしまえばよい」ということは、労働組合に結集・団結して、その職場にとどまって労働条件向上のために闘うというインセンティブも低下するということにもなりかねない要素も含んでいることは注意した方がよい。 <労働の在り方> また社会の生産は人々の「労働」によって成り立っており、また個々人においても「労働」は単なる生活するための「収入」を獲得する手段だけではなく、労働を通して自己実現するという側面も人間にとって非常に大きいものである。その「労働」をよりディーセント(人間的)なものにして、労働が「労苦」ではなく、「喜び」になるような社会を作って行く必要がある。とは言えすべての人にとってすべての「労働」が喜びになるということはありえず、「労働」の「労苦」の側面は必ず残るとは思うが、その側面を減らし、人間化してゆくことが必要。また「労苦」の側面が残っても、仲間と協力・協同して「楽しく」働くことは可能であり、またスポーツのように「労苦」を伴ってもそれを楽しんで行うことは可能である。 なおここで言う「労働」とは、資本の下での「賃金労働」に限られるものではなく、協同組合やワーカーズコレクティブ(ワーカーズコープ)などでの「協同労働」、NPOやNGOなどでの社会活動、家事労働や芸術家の労働など広くとらえるべきだと思うが、それらの労働をよりディーセント(人間的)なものにする、それへの参加の機会を保障し、参加しやすくする必要がある。ワークフェア政策やアクティベーション政策のように「賃労働」に誘導するためだけの所得保障である必要はないし、むしろ労働と切り離したベーシックインカムによって、「賃労働」以外の労働への参加を経済的に可能にする側面も大きい。なお福祉を縮小するための「ワークフェア政策」は問題外としても、「アクティベーション政策」の積極面は評価すべきで、ベーシックインカムと補完的に組み合わせる必要もあると思うが、ここではこれ以上の言及は避ける。 <ベーシックインカムの財源、所得再分配> 私は「ベーシックインカム」の財源には、その原資を調達するというだけでなく、格差を是正する所得再分配的機能を持たせるべきだと考える。 「ベーシックインカム」の財源として消費税を充てる、増税するという案には反対である。所得税、法人税を廃止して消費税に一本化するという主張(たとえばゲッツ・ヴェルナーなど)も行われているようであるがもってのほかである。生存権を保障するに足るベーシックインカムが導入されれば、(絶対的)「貧困」は解消されるものの、消費税の持つ逆進性がなくなるわけではない。 また定率所得税を税源に充てるという主張(小沢修司、イギリスのベーシックインカム推進ネットワーク「市民所得トラスト」など)が消費税を税源に充てるという主張と並んで主流(?)の様であるが、これもおかしな考え方である。定率所得税ということは、この間、累進性が非常に弱められてきたとはいえ日本でも、米国でも一応累進所得税が維持されてきた。その累進性を一切廃止して定率にするというのである。これほど金持ち優遇の税制はない。 日本では上限70%であった累進所得税が1980年代以降60%に下げられ、今日では40%にまで引き下げられている。(その他控除等もあり、実際の税率はこれより低くなる。)この間の30年間に70%から40%に引き下げられたわけだが、これは年収1億円を稼いでいる人に毎年3000万円の減税をしたことになる。このような金持ち優遇を直ちにやめ、さらに累進性を強化すべきである。またこの間土地や株など資産を持つ者と持たざる者との資産格差も、所得(収入)格差以上に拡大している。資産課税の強化や相続税の強化も不可欠である。法人税もこの間一貫して引き下げられてきた。大企業は莫大な内部留保を貯め込んでいる。法人税の強化や内部留保に対する課税も不可欠である。米国でも、レーガン、ブッシュ政権下で、日本と同じように累進所得税率が引き下げられてきたが、オバマ政権はそれを若干戻そうとしているようだ。日本の民主党主導政権もやっと累進性の強化や相続税の強化等を言い出したようであるが、現在の金持ち・大企業優遇の税制は根本的に改めるべきである。 ベーシックインカムの税源として使うかどうかは別としても、炭素税等の環境税の創設や国際通貨取引に課税する国際通貨取引税等の「国際連帯税」などの創設も必要である。 そしてこれら税制改革と並んで、巨大な軍事費や「思いやり予算」等の米軍への巨額の経済支援をなくせば、ベーシックインカムの税源などは十分賄なえると思う。 ベーシックインカムの導入に向けた運動のためには、財源の詳細な検討と算出も必要だが、現在の私にはそこまでの作業が時間的にも能力的にも困難なので、今回は考え方の提示のみにとどめ、それらの具体的な提示は別の機会に譲りたいと思う。
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